旗揚げの経緯
それは1990年の夏、当時僕たちが所属していた岩手大学の演劇サークル「劇団かっぱ」の合宿中の出来事だった。夜、宴会をして盛り上がってる最中、旗揚げメンバーの一人である松浦武彦が言った。
「劇団を旗揚げしよう」
酒の席でもあり、次の公演が終われば引退と言う時期で、芝居から離れることに一抹のさみしさを感じていた僕たちはその話題ですぐに盛り上がった。おりしもその頃、盛岡は劇団の旗揚げラッシュで雨後のタケノコのように劇団が旗揚げされていたため、旗揚げすることにそれほど抵抗を感じなかったこともその盛り上がりに拍車をかけた。
そしてまた松浦が言った。
「劇団名は『悪の秘密結社 風紀委員会』だ」
劇団なのに悪の秘密結社はないだろう。秘密じゃ公演できないし、悪なのに風紀委員会はいかがなものか、しかも悪の秘密結社と風紀委員会だけではなにをしてるのかすらわからない。しかし、酔った勢いというのは恐ろしいもので、普段なら冷静に突っ込むところも、逆に自分たちに「ブラックローズ」や「ピラニア伯爵」などショッカーまがいのあだ名を付けて盛り上がる始末で手におえない。そもそも、なぜ悪の秘密結社で風紀委員会なのか? それにはもちろん深い理由などあるわけもなく、たまたまその日の昼間に読んだ脚本に悪の秘密結社が出てきたことと、松浦がサークルの風紀委員長を勝手に自任していたからにすぎない(ちなみに彼の言う風紀とは、飲むときは飲む、暴れるときは暴れる、みんなで盛り上がっている最中に女口説いたり、二人で消えたりするのは許さん! というすばらしいものだった)。結局、その夜は具体的なことはなにも決めず、ただ酔った席の戯れ言ということで旗揚げの話は終わった。
……ところが、それから3ヶ月ほどして秋の学祭公演も終わり、すっかり引退も決まった頃、松浦が「劇場、押さえたから。来年の4月」と言ってきたのだ。青天の霹靂とはこのことである。「あれは酔った席での話じゃなかったのか?」「まだ酔っ払ってるのか?」「ほんとうに悪の秘密結社なのか?」「風紀委員会はどうなんだ?」などいろいろなことが頭の中を過った。しかし決まったからにはやるしかない。それに僕らはまだ芝居を続けたかった。あの夏から旗揚げという言葉はずっと心の中で燻りつづけていたのだ。
主要なメンバーは5人。同級生の男4人と下級生の女の子が一人。卒業までの一年間の期限付きの劇団だがとりあえずやってみよう。
そして1991年4月、悪の秘密結社「風紀委員会」は産声をあげた。旗揚げの演目は「REMAINS -残骸-」(作・加藤源広)である。その後、その年の11月に手塚治虫と日本書紀を題材にした「下作三昧」(作・徳田憲亮)を上演し、3月の卒業公演を終えれば風紀委員会は解散するはずだった。ところが実際に卒業を間近に迎えてみるときちんと卒業して盛岡を離れるのは一人だけで、残りは進学や留年のために居残ることになった。
「もしかしたら続けられるのかもしれない」
「まだやれるんじゃないか」
「とりあえすやったもん勝ち?」
そして卒業までの予定だった「悪の秘密結社 風紀委員会」は新たに団員を募集して活動を続けることになった。旗揚げから2年後、さすがに悪の秘密結社ははずかしくなり「劇団・風紀委員会」に改名。以後、オリジナル作品に限らずシェイクスピア、つかこうへい、イッセー尾方、ケラ、宮沢章夫、内藤裕敬など幅広いジャンルの作品も節操なく上演。普通、劇団ごとにアングラとかコメディーとか新劇、静か系、塚系と特定のジャンルがあるものだが「カラーがないのが風紀のカラー」と言うことにして、とりあえずその問題は置いておいている。そしてそのまま現在に至る。
こうしてみてみると、じつに安易に偶然になんとなく結成して続けてきたように思われるかもしれない。事実、私自身その通りな気もする。劇団を旗揚げしたころは「とりあえず感」は強かったし、高い志も情熱もうすかった。とにかく芝居ができればいいと思っていたふしがある。しかし、今はそれなりに変わってきた。幕をあげるたびに志を高め、情熱を燃やしてきた。途中ですり減ったり、曲がったり、消えてしまったりすることなく芝居に惹かれ続けてきた。そしてそれは芝居にはじめて触れたころよりもずっと強くなっている。
大学の4年の冬、卒業を控え解散するか続けるか話していたとき、誰かが言った
「芝居をしてない自分が想像できない」
「芝居をしている自分が普通で、してない自分はおかしい自分だ」
いまもその気持ちは変わらない。自分たちにとって芝居はやって当然、やらなきゃ不自然な生理現象みたいなものなのだ。だからもっとおもしろくしたい。いい舞台をつくりたい。
だから、ぜひ、みなさんも劇団・風紀委員会を応援してください。そしてできればこのホームページばかりでなく劇場のほうにも足を運んでいただければ幸いです。